難破船長人食い事件

鳥鳥

 大東亜戦争酣(たけなわ)たりし昭和19年12月3日早朝、急務を負いし船団”暁部隊”は、
知床経由、小樽港に向け根室港を出帆した。
朝から怪しかった空模様が羅臼沖合いに差しかかった頃には雪を付けた風が強くこの地
方特有の吹雪になってしまい、船団の行手は吹雪と波に遮られがちだったが、船団(7−
9隻隻位)はよく統一を計り急務を果たす為一路知床岬を目 指し航路を続けた。


羅臼より北方約55キロメ-トルの沖合いにかかった頃、この船団の一隻”第五精神丸”
(約27屯)は突然機関部の故障で航行不能に陥った。早速故障の修理にとりかかった
が波の為木の葉の如く揺れる船の上では満足な修理も出来る筈もなかった。船長(当
時34歳)はこの吹雪の修まるのを待つべく錨を下す様命じた。しかし錨の一丁
,や二丁
ではこの波に耐えるべくもなかった 。船はどんどん流される様だった。船長は萬策尽き
た、斯くする間にも船は流れ船長以下六名の乗組員は今は蒼白となり一言も声を発す
るものもない。
皆目視界はきかないが陸の方に流される事は船乗りの感でどうやらわかるのだった。


遂に船長はなをか決意した。乗組員七名の沈黙が数十分続いた、果たして船長の感の
通り陸が見えたのだ。”陸だ!”と誰かが叫んだ時はこの船が岩礁にたたきつけられる
寸前だった。
船長は一番泳ぎの達者な者に綱を陸に持っていく様に命じた。命ぜられた若者は悲壮
な決意に顔面をぴくぴくと痙攣させたと思うと上着を捨て太いロ−プを胴に縛り付
た。残る気荒な流石に悲涙を禁じ得ず思はずその男に抱きついた。「大丈夫だ」と一言
いったとおもうと揺れる船の上から転げ落とされた様に逆巻く海中に躍り込んだ。


吹雪は海面にたたきつける。しかしロ−プはずるずる、ずるずると伸びて行く。五、六十
米も伸びた頃綱がとまった。長さからみて陸に到着したものらしい。
船長は ”続け!”とばかり飛び込み無我夢中で綱につかまってぐんぐん泳いだ。どの位
時間がたったものか、一番年少者の西川重一(19歳)に尻をたたかれて気がついた。
その辺を見回すと波打ち際に船員がごろごろと倒れ、或る者は波と一緒に転がっている。
これはいけないと思った船長は東川と二人で倒れている船員の尻をたたきつけ、”しっか
りしろ”絶叫し続けた。”ここに居ては凍死する。一時吹雪を凌ぐ場所を探さなければなら
ない。


この山を一つ越してみよう”と一同を励ましつつ歩き出した。夫々手を取り合って歩いた。
濡れた服は鉄板の様になってしまい、体中どこをつねっても何とも感じない。雪の中を泳
ぐ様にしてどうやら一山越した時、天の恵みか神の助けか、十二月三日も暮れようとす
る吹雪の中に家らしい影が見える。夢中で駆けつけた。続いて西川が家の中に転がり込
んできた。
家の半分以上が雪にうまっていたのをどうして入ったものか意識さえしてない、二人は今
にも倒れそうになる体を最大の努力で支えているのである。
何と幸いなことよ、棚の上に大箱のマッチが上がっているではないか。二人はマッチを
付けようとしたが手は鉄棒のようになって用をなさない、ずい分苦心してどうにかその辺
の塵を集めて火を燃す事が出来たので板切れを燃やしその火に抱きつく様にして体を暖
めた。斯くして二人はこの日より六十日間、無人島とも言うべきペキンの鼻に於いて言語
を絶する苦難の生活を開始するのであるが、この内容については一応省略し後述する。
兎に角この六十日間こそ彼等が生死を賭けて生活であった事は言うまでもない。


唯昭和二十年一月十六日頃から十九歳 の船員西川が行方へ不明になった事だけは記
して置く。
昭和二十年二月三日難破してからちょうど二ケ月にルシャ(羅臼より二十一キロ)の野坂
氏宅に現れた、そして昨年十二月三日夕刻難破して以来のことを語り体の衰弱甚だしく
なった為危険を冒して雪のなかを歩いてきた、そしてスキ−の跡を発見した時の嬉しさは
この上なく間もなくこの家が見えたので入りこんだのだから助けて貰いたいと詳細に語った。
この話を聞いた野坂氏は早速羅臼に来たりこの旨を役場に申し出た。忽ち全村にこの話
が広まり戦争美談として騒がれた、翌四日船長は羅臼に送られ衰弱した体を豆屋旅館の
一室に休養され羅臼村愛国婦人会、青年団等の慰問が毎日続いた。


しかし船長は深くその人々に感謝するのみで多くは語らず静かに床に横たわっていた。
一方暁部隊本部ではこの情報により部隊長佐世曹長等一行二月下旬に現地調査及び死
体収容の為来村し警防団の協力を得て現地調査を行なったのである。
死体捜索には随分骨を折ったが遂に一人より発見出来なかった、即ち藤巻久当時二十才
の死体で崖に寄りかかったまま凍死し、立ったまま雪のなかにうもれていたのである、ただ
ちに火葬に付し佐世曹長は「軍属第五精神丸船員藤巻久戦死の場所」と記し木碑を立て引
き揚げたのである。


その後五月上旬に至り、知西別佐々木多次郎氏は海胆採取のためペキンに行ったのであ
る。(船長などが生活していた小屋は春刈古丹片山梅太郎氏所有のものでその隣に佐々木
多次郎氏の小屋がある為毎年春、海丹採りに行くのである)五月上旬と言っても海岸には
流氷があった。
ある日佐々木氏はふと流氷の間に何か挟まっているのを発見し不思議に思って近よるとリ
ンゴ箱である。益々不思議に思って開いたところ驚いた。人間の頭、骨、皮などがびっしり
入っているのである。
直ちに警察に届け出検証したところ人間一人り分の骨がばらばらになって入っているので
ある。
即ち頭蓋骨に皮のついた侭頭髪が二寸ほど伸び、手は手頚から切断されたものが左右、
足も同様、他は皆真白な骨で肋骨が煮られたような色を帯びていた。胸から下腹部まで一
枚に剥ぎ取った皮、もう一枚は肩から胸部までの皮が入っており、箱の上には船長のネ−
ム入りの背広が一着入っていたのである。早速検事など一行も急行し、番屋の中、箱の骨
を検証また船長も取り調べを受けた結果六十日間の生活状況を自白したのである。


この検証の際吉田三十五、六歳の死体が発見されたのである。
吉田は頭を海岸に向け外套を着て手を投げ出し心地よく寝たる格好にて死んでいた事を附
言しておく、船長の自白は 船長の自白は次の通りである。
”小屋に転がり込んだ私は、西川君が続いて入ってきたことも、どうしてマッチを見つけたか
も全然意識していなかった。
翌朝は猛烈な空腹で気が遠くなりそうだったが、東川君が海岸から” かもめ”の死んだのを
一羽持って来てくれたので、小屋にあった味噌で煮て食い、漸く人心地になった。それから二
人で海岸を歩き、食物を探し回った。幸い”トッカリ”が一頭、流氷の間に浮いていたので、こ
れを持ち帰り焼いたり煮たりしてそれはそれは大切に食べたのです。
ところが一月に入ると愈愈食物がなくなり、海は一面流氷で海藻も食べられず、味噌とお湯で
十二、三日間命を繋ぎました。


しかし飢えと厳寒の為西川君は遂に一月十六日朝死んでしまいました。
私はその死体に抱きつき複雑な感情に支配され、大声をあげて泣き叫びました。しかし私と
ても結局、東川君と同様死を以って終わらねばならぬと考えた時、むらむらと野獣のような気
持ちが燃え上がり、狂人のように、そして”トッカリ”の皮を剥ぐ時と同じ気持ちで東川君の死
体の肉を切り取ってしまいまし た”そして一月の末再び食べ物に窮しました、海は依然流氷
の原です、私の死も決定した様なものですそこで私は考えました、此処に居ても何れ死なな
ければならないのだ、それなら行ける所まで歩って見よう、その間人の住む家がないとも限
らないと自らを励まし、残りの肉を焼いて全部持ち夜を徹して一日中歩き続けました、深い雪
の中を泳ぐように歩き又流氷を飛び越え、恐らく十里以上も歩ったのでしょう、二日目の昼頃
空白と疲労のため一歩も進めなくなり愈愈死ぬ時が来たのだと観念し、雪の上に腰を下ろし、
前方を見つめて居りますと、ふとスキ−の跡らしいものを見つけました、やれ嬉しやと元気を
出し駆けて行きますと確かにスキ−の跡でした、私は泣きながらその跡を歩きました
そして家の在る事を念じながら一歩一歩歩きました、岬を廻った途端煙筒から煙の出ている
家を見る事が出来ました、この時の私の気持ちは筆舌に現せません、斯くして私の正命は野
坂さんに助けられたのです。・・・・


こうして船長は死体毀損死体遺棄の罪名を以って刑に服するにいたったのである。 ここで筆
者は恐るべき想像を作り出す事が出来るのである。第一に七人の乗組員のうち、三人の死体
を遂に発見出来なかった事、第二に、西川の肉を食った後の骨を海に流した事、”海流の関
係で再び海岸に寄ったのであるが)第三に西川が寝たという数枚重ねた筵に大量の血がつ
き、床板までその血が通っていた事、これらを総合して想像すると、遭難の日から西川が死ん
だ(船長は行方不明になったとも言った)日まで四十四日、この間発見されぬ三人の死体お
も船長と東川が食ったとすれば十五日に一人宛喰って期間が符号し。遂に食尽きて、人間の
肉の味を知っている二人にすれば、どちらが殺すか殺されるかより外に途がない。
そこで船長は一月十六日に至り、西川を殺ししてその肉を、二月まで喰い、再び残り少なき
食料に心配して歩き出したとも想像出来る。
しかし後述した事はあくまでも筆者の想像であり、現在まで判明した事実ではない。
終わり  羅臼村郷土史より


武田泰淳はこの事件を題材に戯曲「ひかりごけ」を昭和29年3月「新潮」に発表してます。
またこの事件に関心をもったジャ−ナリストでありノンフィクション作家である合田一道の著書
「裂けた岬」、「知床に今も吹く風」(恒友出版株式会社)で事件の全容、晩年の船長の姿を知る
事ができます。武田泰淳と青年のことも詳しく述べてあります。氏は晩年の船長に会っています