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吹 雪 と 流 氷 帯


冬の日の日暮れは早い。国後島の向こうから昇った太陽が、知床半島の山陰に落ちたかと思
う間も無く、濃い暗闇が急速に迫ってきた。「第3かす丸」から望む半島の山々が黒っぽく
霞んで見えた。船の周囲に張り詰めた薄氷が時折ぎしっ、ぎしっと不気味な音を立て
た。
だが3人はまだ遭難したという意識にはなってなかった。
「家でも心配しているだろうから、火を焚いて知らせるべ。無事にいるからってな」
子出藤が言い出して、ブリキ缶で火鉢を造り、船にあったミカン箱を壊して薪にし、そ
れに重油を注いでから火をつけようとしてハッとなった。誰もマッチを持っていなかった
のだ。それでもガスライタ−が1個あったので、それで新聞紙に火をつけ、火鉢に投げ
込んだ。海水を少しだけ重油を注ぐと、水と油がバチバチとはねて火の粉がいき良いよく舞い上
がった。
「これなら羅臼からでも見えるべな」
子出藤は少し得意な顔つきで言った。

海水をわずかに混ぜただけで火の粉がはね上がるなど、長年、猟師をしていて積んだ経験から
きたものにほかならない。
子出藤がウイスキ−のポケット瓶を取り出して、2人にも分け与えてちびりちびりと飲
んだ。寒い時にはウイスキ−が体を暖める役目をしてくれるのである。
そのころ、子出藤の妻、スワから漁業協同組合に、
「すぐ帰ってくるはずだったのに、いまだに帰らないので捜索してほしい」
と通報があった。驚いた漁協は道路一本は慣れて建つ羅臼海上保安署に通報する一方、
「勝丸」「日章丸」の二隻の助宗漁船を捜索船にし、子出藤の親戚に当る同町岬町の
津山博志が「勝丸」に乗り込んで知円別港を出港、真っ暗闇の海上に照明灯を照らして捜
索をした。
羅臼海保には4年前から巡視船「ゆうばり」(35トン)が配属になっていたが、木造
船なので、海上が結氷したり流氷が現れだす1月10日がろから3月半ばごろまでは根
室港に回航されており、羅臼には巡視船はいなかった。

妻のスワは、流氷の中でいつも仕事をする夫だけに、遭難しても必ず生きて戻ってく
ると信じ、同居している幅崎の妻、富子(28歳)を励ましながら、船がいつ戻ってもい
いように、裏の浜辺に迎え火を炊いて待った。

いつの間にか波が少しずつ高まりだした。
救助の両船が沖合い7.2キロあたりに見え隠れする火を発見し、「第3かず丸」のもの
であると判断し、船首に火を灯して近ずいていった。だが、厚さ1.2メ−トルの流氷帯
が周囲3.6キロにわたって延びていて、すぐそこに見える船まで近ずくことができな
い。
しかも火は見えたと思うと、すぐまた隠れるという状態で、うまくコ−スを探すのも困難になった。
トランシ−バ-で相手にしきりに呼びかけても応答がない。両船の乗組員はあせり、苛立った。
「第3かず丸」のほうは、早々に救助船が近ずいてきたので、幅崎がボロ布を竿先に縛りつけて
火をつけ、盛んに振り回した。

しかし救助船は距離を置いたままそれ以上近ずこうとしない。
「何をしてるんだ」
流氷帯に遮られている事情を知らない3人は、しきりに悔しがった。そのうち2隻の救
助船は、くるりと背を向けて岸辺に向かって去っていった。
「こんちくしょう!気がつかなかったのかっ」
幅崎が、暗い海面のかなたに向かって大声で叫んだ、だがその声は、濡れた闇に吸い込ま
れて消えた。

同じころ、択捉島沖合をパトロ−ル中の釧路海上保安部巡視船「だいおう」(450ト
ン)が緊急連絡を受けて現場にむけて急行していた。しかし途中、流氷帯と吹雪に遮られて
近ずけないまま、虚しく引き返した。羅臼海保は船が流氷にはさまれて身動きできないで
いると、判断し、急ぎ漁協に連絡した。
 漁協は、一刻の猶予もならないとして、捜索本部を設置するとともに、翌日早朝から全
漁船が操業を休んで大がかりな捜索を行うことに決定、その旨を各漁船に知らせた。
 この段階になってトド撃ちの3人は、ようやく遭難したことを悟った。だが、それほど
の深刻さはまだない。今夜は見つけてくれなかったが、明日、明るくなったら、僚船がき
っと助けにくると思っていたのだった。ただ昼食に握り飯を食べただけなので、腹の虫が
ぐ-ぐー鳴った。子出藤が、

「じたばたしても始まらぬぇ。明日朝にも助けにきてくれるさ。まず眠ることだ」
と言い、狭い機関室の中にもぐり込み、エンジンを抱くようにして横になった。河野
も幅崎も、機関室にもぐり込んでエンジンに体や足をすり寄せた。エンジンをかけると暖
かくなるのだが、油が減るのですぐに切らないければならない。船に積んできたシュ−バ2
枚を代わる代わる着込んだ。シュ−バは動物の皮で作られた膝下まである長い防寒コ−ト
だが、この寒さをしのぐことはできない。
仕方なくわずかしかないウイスキ−を飲んだ。あっという間に瓶が空になった。

午後8時過ぎ、それまで東南の穏やかな風が突然強まり、風速15メ−トルを超す
暴風に変わった。海上がしだいに時化だした。日本海上空に低気圧が発達し、あたり
を覆いつくしたのが原因だった。地元の測候所は午後8時15分、風雪波浪注意報を発令
した。夜半になると風に雪が混ざって吹きつけた。この模様は羅臼漁業無線局の「日誌」
及び「気象観測日誌」に記されている。