羅臼の伝説


私が羅臼に嫁に来て、羅臼そのものが未だ何も解らなかった時に、少しずつ羅臼の町に興味をもちはじめた頃
友人が話してくれた伝説に、この町にもこんな一面が有った事に安らぎを覚えたものでした。


観   世   音   岩
昔、知床半島の岬に接する三里の岸壁に唐の名僧が漂着し、酋長の穴居に宿を借りて五百日もの長い間滞
在しました。
伝によると知床の岸壁にある等身大の観世音菩薩の尊像はこの唐僧の彫刻になったものだといいます。
この観世音菩薩の像については次のような悲しい伝説がありますこの唐の名僧が日本に仏法を伝えようとして
渡航したのですが、暴風ため漂流してやっと知床半島に上陸し、一命を酋長に助けられました。
唐僧は特戒護法(悪魔や病気などを降参させる法力をもつ)の美しい若法師でありました。
仏縁の運が悪く“日出つるヤマトの国”にも渡れず、また“日の没する唐”の故郷ににも帰れず、空しく哀愁の歳
月を北海の地に送りました。
幸か不幸か酋長の家には花も恥らう美しい一人の娘が降りました。眉目秀麗の唐僧に娘はいつとはなく心を惹
かれ、ついに切々の思慕の情を打ち明けました。
けれども金剛不壊(非常に堅くて決して壊れない)の唐僧は、娘の切ない愛情を熊笹の私語のように聞き流し、
日夜酋長から借り受けた石斧でコツコツとわき目もふらず岸壁に観世音菩薩の尊像を彫っておりました。
そして彫り終わるやお礼のしるしに沢山のお金の入った胴巻きを置いて、ただ一人丸木舟に乗って何処ともな
く過ぎ去ったのです。後に残された娘の驚きと悲しみとは言語に絶するものがありました。そして思慕の情を抑
えることが出来ず、やがて唐僧の後を追って怒涛逆巻く海原に身を投げたのです
岸壁の観世音の尊像は、娘の身代わり観音であるというのです。


念   仏   岩
その昔、知床半島に住んでいた酋長の一人娘がある夜夢に見た一人の逞しい青年を恋い慕い、連日連夜悩み
続けました。娘は、半島を南に広漠たる原野があり、その原野の端に夢に見た逞しい青年が自分を待ちわびて
いると信じました。見もも知らぬ青年に恋いがれた娘はこの想いをかくしきれず、母に打ち明けました。
母は突然の娘の言葉に驚きましたが可愛い一人娘の一途な希望を聞き入れ、ある日父には知らせず母子二
人でひそかに南に向かって歩みを進めたのでした。間もなく通りかかったのがこ 奇岩岸壁です。
母はこの岩を念仏を唱えながら越せば何とか越せないこともないと伝え聞いていましたので、娘に念仏の唱え
方を教え、岩をよじ登らせました。
数十分もかかってようやく娘は岩の頂上に達して、振り返って別 の瞳を母に向けた。見下ろす娘 の目にも見
上げる母の目にも朝の白露のような涙が光っておりました。やがて娘は岩をおり始め、その姿はだんだん見え
なくなっしまいました。母は念仏を唱えつつその場に立ち尽くし、見えなくなった娘の幻を何時までも見送ってい
たのでした。             以来この岩を念仏岩と呼び伝えられています


底  な  し  沼
羅臼温泉の裏手に沿って羅臼川を上ると、熊超え滝の手前に川と平行して、すり鉢形をした底無しの沼と呼ばれている沼があります。
その名の通りに青々とした水をたたえた不気味な沼で周囲はわずか四、五丁位(一丁は約109M)のいたって小さいぬまです。
古老の話によると、この沼は明治26年頃、噴火により山崩れが生じ、その際土砂が羅臼川をせき止めできたものらしく、
当時あの水量豊富な羅臼川の水が数日間も枯渇し、村民がこれを不思議に思って温泉に行ってみると、今までなかった沼が
出来ていたばかりか、当時客数名が山崩れの下敷きとなって死んでいたとのことです。
この底無し沼にからんで次のような神秘な話があります。
真言宗の僧で桑門長海と言う人が、丁度山の変事(噴火)がある直前まで温泉に泊まっておりました。彼は、その日山に変事が
あることを予言して、当時客と温泉宿の主人作田繁蔵夫妻に山を下って市街に出ることをすすめましたが、作田夫妻の他は皆一笑に
付して山を下りませんでした。
そのため居残ったもの全部は命を失ってしまったのでした。彼の予言は前夜夢うつつの中での神のお告げによるものでした。
そのお告げとは次のようなものでした。
身に破れた衣をまとっても、物欲の汚れのない彼は幸福に満ち満ちて旅から旅へ・・・それが唯一の人を説く道であり、徳を積む
修行でした。彼は俗界を離れて雲上より霊峰へと一歩一歩歩みを続けていました。歩みを続けているうちに百花繚乱の花園に出ました
その花園は到底俗界にみる塵芥にまみれたそれとは似ても似つかない美しいものでした。そこは御仏をはじめ羽衣を軽やかに
まとった天女や、銀色の馬にまたがって天空を自由に駆ける女神たちがいる、善美の世界喜びの天国でした。
彼は初めてみるこの世界に立って恍惚として己を忘れていると白馬の女神が彼の前に馬を進めて言いました。
「汝らは早く山を下り海岸に出よ。然らざれば危難忽ち身に迫るべし」と。
その理由は羅臼川の主と羅臼岳の主との間に争いが始まり、そのために地上に一大変動が起こると言うのです。
ことの起こりは羅臼川を支配した川の主が、自己の力を過信し世の中に自分より力の強いものはないと自惚れ、余勢に乗じてさらに
羅臼岳一帯をも自己の勢力圏内に入れようとの野望を抱き、山の神に向かって「今後自分の家来にならなければ自分の所有権に
属する川の水は勿論この川に流れ注ぐ少しの水でも一切飲むことはならぬ」と言い出したののです。
驚いた山の主をはじめ一同の者は早速相談の結果、山の宝物を条件に和解を申し出ました。
ところが川の主はそんなことには耳も傾けずついに戦端を開いたのでした。戦いは数日にわたっても容易に勝敗はつきませんでしたが
とうとう最後の勝敗を決める日が到来しました。
その日は朝からどんよりとした薄気味悪い、そして何となく怒気を含んだ険悪な天気でした。その夜のことです。地鳴り山鳴りが
引き続いて起こり、それは最後の決戦の為に山と川の両雄が四つに組んで揉み合う響きでした。
やがてのこと一大音響と共に、山は崩れ、川の底は抜けて、今の底無し沼が出現したのです。そして川の主はこの時以来この沼に
霊閉されてしまったということです。桑門長海はその後も旅から旅へと流浪を続け、何時の頃からか明らかでありませんが、
隣町標津の伊茶仁で             行き当たりばったり草の枕かな      という辞世の句を残し死んだと伝えられています。


わ    し   岩
その昔、岬に住んでいた酋長はオジロワシのひなをとらえ、てしおにかけて育てました。
そのかいあってだんだん成長するにつれ、酋長の愛情がワシ身に伝わって、やがて酋長とともに仮に出かけては獲物を捕らえて
くれるようになりました。ある冬の日に狩りに出かけましたが、厳しい知床の冬はにわかに猛吹雪と変わりました。
一寸先も見えずさまよい歩いていましたが、凍てつく寒さは身を刺し、飢えと寒さでとうとうかえらぬ人となってしまいました。
主を失ったワシは途方にくれ、酋長の死んだ場所に翼をとめ幾日も見守っているうちにいつしか岩になってしまいました。


義 経 の 尻 も ち 岩
昔、源義経がこの地に来て、寄ってきた鯨を一刀の下に切り、よごみの串に刺して焼いて食べようとしたところ、その串が
おれてしまいました。
義経は驚いて尻餅をついたので岩がへこんでしまい、尻餅岩と名前がついたということです。
(北浜の通称「熊岩」の後方に段丘があります。短い草が生えた急傾斜の部分は、巨大な人間が尻をついた
ような形の凹凸になっています。)


蝮    蛇    岩
知床海岸に蝮蛇のような怪岩が突き出し、そのそばに人が立っているような五基の岩があります。
言い伝えられるところによれば、シャマイクル(武蔵坊弁慶)の妹がここに住んでいた時、大蛇が妹を呑もうとし
たのを見てシャマイルクが怒り踏み殺したところ、たちまち岩となったというのです。


このほかにも色々な伝説が語り継がれております、機会がありましたら掲載したいと思っております。
参考資料:羅臼町史